〜〜 当 院 の 歴 史 〜〜



1900年頃の医師資格試験は現在とはかなり違っていました。
1879年制定の医師試験規則では『日本官立大学(東大)ならびに欧米諸国の大学校において医学卒業証書を得たる者は更に医術開業試験をすることを要せず』とあり、東大と欧米大学医学卒業者以外は医術開業試験が科せられていました。

創設者 須田喜平(1885年9月29日生〜1954年没)は1905年醫術開業前期試験に、1907年後期筆記および実地試験に合格し、順天堂医院(現順天堂大学医学部附属病院)で産婦人科・泌尿生殖器科・皮膚科の研修を修了しました。
1910年醫籍登録(第23832号:つまり明治維新以来、現代医療の体制ができて全国で2万3832人目の医師)
1911年 埼玉県大宮町大字大宮(現さいたま市大宮区桜木町)に須田医院を開業しました。

右は1914年頃の医院で往診用人力車と車夫さんも写っており、当時の生活をうかがわせる貴重な資料です(弊院所蔵)。当時の大宮町には医療機関は数える程しかなく、戸板で運ばれて来るような患者さんも多く、どんな状態でも、どんな病気でも全力で対応する事が必要であったと聞きました。
また、経済状況も厳しく、診療費の代わりに野菜などを持って来られる方も少なくなかったようです。

1931年、診療内容の充実のため『私立 須田病院』を設立しました。当時の病院院則によると診療科目は産科、婦人科、内科、外科で、入院料は1人部屋 3円50銭、2人部屋 3円と記されています。また、職員として自動車運転手を定めており時代をうかがわせます。
ところで、この時代には私立病院は埼玉県ではほとんどなかったようです。


2代目 須田芳郎(1907年3月1日生〜1988年没)は1934年東京慈恵会医科大学卒業
同大学産婦人科教室に所属し、慈善を目的とした施療病院である東京慈恵会医院(現東京慈恵会医科大学附属病院)に勤務しながら、同大学医化学教室では”人胎盤のビタミンC”について研究し、1944年に医学博士号を取得しました。
その後、喜平とともに地域の産婦人科医療に専念してまいりましたが、出産ラッシュで旧病院が手狭になったため、1954年大宮市大字大宮908(現さいたま市大宮区桜木町2-348)に当時としては大規模な2階建て産婦人科専門の須田病院を新築・移転しました。(写真:左下)

また、芳郎は開業医として日々の診療に専念しながら、研究にも熱心で、現在では汎用されている妊娠反応検査に注目しました。
当時は妊娠初期の判定は熟練した産婦人科医でさえ難しいものでした。そこで、うさぎの耳を利用して妊婦さんの尿から採取した検体で妊娠反応のテストをくり返し、大学や研究機関に先駆けて妊娠の初期判定の方法を研究しました。
芳郎のユニークで的をえた研究に、専門家の勉強会である学会でも彼の質問や提案に大学の研究者さえ答えに窮する事が多かったと聞いています。
しかし、功名心などまったくないため、この一大研究はいつのまにか大学、研究機関、製薬会社等へと伝播し現在の簡便妊娠検査へと姿を変えていきました。


3代目 現院長 須田健夫は永年継承されてきた産婦人科から、より悩んでいる方の多い胃腸病を中心とした診療体制へと変換いたしました。
『創設者 須田喜平生誕100周年』にあたる1985年に医療法人 慈健会 須田胃腸科外科医院として同地に新築・再出発いたしました。(写真:左)
日々の診療は『須田喜平時代の広い知識と豊かな経験』と『須田芳郎時代の専門性』を兼ね備えていなければならない難しいニーズに追われる時代となっています。
今後はさらに力強い医療ネットワークを加えて、新しいニーズにお答えできる医療機関を目指してまいります。